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2008年9月21日

ヘタの考え何するにニタリ。

以前は、というと今は無いように思えるけどもどこまで解消されたかはまだ分からない。考えに窮すると言葉に詰まることがよくあって、いろいろな人にたしなめられたり迷惑をかけたりしたものだった。今は、少しはましになってきたんだろうが未だ途半ばといったところかな。うん。

考えが進むではなく滞る、むしろ悩むといった状況で、一体どうすべきかというところに「考えるための材料が足りない」「足りない材料は何か」と考えるべきだということを最近教えられてなるほどと得心した。考えるということは俎上にある食材を切り刻み煮る焼くといったプロセスであり、よどみなく流れるが最上ということである。今後より思索を深めるにあたり、大切な視座であると思う。

自分がそういった性質の思考を持つからか、逆に充分な材料を持たずにいい加減な知見に基づいて放言し、そのことに気づこうともしない人種は心の底から嫌悪している。八幡和郎はその代表格と言っていい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/河井継之助
河井継之助 - Wikipedia

戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄涼寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新知100石を与えて河井の家族を扶養させた。

河井は賛否分かれる人物でそれは仕方の無いことであり、むしろ地元民の方が嫌いがっていたりもする。好評価してるのなんて藩外者の方だと思う。それでも最近はだいぶ和らいできたのかもしれないが。

まあどっちにしても、当時の状況、恭順はたまた抗戦か、藩論の統一ままならずにいた上に、戦火を逃れる可能性が限りなく低かった(抗戦はもちろん、恭順しても会津や庄内と戦わされたであろう)ともされる情勢で、何をどこまでなし得たかと思うと、うーん、どおなんでしょお〜なんて長嶋さん風に小一時間ほど考え込んでしまわざるをえない。最終的に西軍と戦火を交えることになってしまったのは詮無いことなのだとも考えられる。難しいけど。

もちろん、この最終判断をどう評価するかは別としても、八幡は著書内で「河井継之助を重用したせい」として簡単に切って断じている。別に河井が嫌いでもかまわないが、その短絡極まりない姿勢は、あまりに馬鹿げていて反吐が出る類のものであった。

その著書というのが、江戸期300藩を評価すると言って全国津々浦々を網羅していたりするわけだが、著者が分かる(のがあるのか疑わしいくらいだが)藩から知らない藩まで無理矢理に書いていったのであろうことがここからよくわかる。読者はその事情を知ることができないのだから、ちょっと見では「ネタ帳として面白い」くらいの評価をしてしまう。賛否の分かれる事案をたった一方の独断と偏見だけで紹介してしまうことの恐ろしさを知っていれば、「ネタ帳」がそんな有様じゃいけないって分かるんだけどね。

あとはまあ、自分が同類にならないように、日々注意を怠らぬが肝要ですかね。

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