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2006年6月29日
コードとコメント
きれいなコードを書けるひとは、きれいなコメントも書ける。
きれいなコードを書けるひとでも、きれいなコメントを書けないひともいる。
しかし、
きたないコメントを書くひとは、きたないコードしか書けない。
きたないコメントを書くひとが、きれいなコードを書くことはありえない。
...かどうか、本気で検証してみたい欲求に駆られる今日この頃。世のcodewriterには二種類しかいない。「きれいな」コードを書ける人種か、そうでないか。「読める」コードと置き換えてもいい。
「読める」コードを書けるということは、そのコードが解決しなければならない問題領域に対し、writerが適切な把握ができているということだ。コードは動いてナンボだろう、と言うなかれ。とりあえず動かしてみたところで、問題領域の把握が適切に為されていないコードがどれだけ真っ当に「動けて」いるというのか。「動いていない」箇所に目をつぶるか気づかない間に、何となく「動いている」ことにしているに過ぎないのだ。
「きれいな」コードを書くひとは、あたかも「コードこそがドキュメント」であることを(意図的であるかそうでないかを問わず)実践してしまうあまり、コードに余分な装飾や記述の入り込む事を真っ先に嫌う。そのようなコードにおいては、コメントの量はあまり多くないか、全くなかったりする。
いやもちろん、コメント量の多寡そのものが問題なのではない。だが、これが逆説的に「きたない」コードを象徴する指標になりうるのではないかと思うのは、コードロジックの中核、核心となる処理を記述するにあたり、コメントはその内容を他の人間に見せよう(=説明しよう)という動機に基づいて行うものであるならば、そのロジックを阻害したり、攪乱するようなコメントの記述をしようとはしないはず、という仮説に基づく。本人は目印や目安のために入れているつもりでも、その問題を的確に把握できていないままに打ち込む目印が「見やすい」ものであるはずがない。そういう状況でのコメントは大抵目障りで、鬱陶しくて、厄介で、邪魔極まりないものでしかない。統合環境や高機能エディタなどでは予約語やコメントを色づけする機能があるが、それを有効に使ってでもいるつもりなのだろうか。ハイライトがびしばし掛かってかっこいいなあくらいの明るい気分なんだろうか。パッとさいでりあなんだろうか。
もう、訳が分からない。とにかく、もうこのfxxkin' PGは二度と使わないことにしよう。そうしよう。うん。
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たまにコメントも不要なほどの美しいコードに出会うこともあります。
その逆もしかり、コメントは書いてあるものの、あまりにも高度すぎて凡人には理解不能なコードもあります。 inとoutはわかっても
何やってるかさっぱり妖精